古川町といえばこの白壁土蔵街。
約500m続く白壁土蔵と瀬戸川を泳ぐ鯉は今では飛騨市を代表する景観になっていますが、この街並みが出来たのには長ーい歴史があります。
この白壁は漆喰(しっくい)で、燃えない素材。
大切なものを入れておく蔵などとして古くから使われてきました。
また、高い明光性を持つので、月の光に反射し防犯対策になる、乾燥にも湿気にも強いのでオールシーズンで調湿できる機能もあるという万能な素材。
江戸時代には古川町でも、京都の辺りでは特に有名な「間口税」というものがありました。
「間口税」は、家の間口3間(約5.4m)ごとに税金をかけるというもの。
細長い家の造りが多くみられるのは、間口を小さくして税金を少なくしようとしたという知恵です。
玄関から見ると小さく見えるのに中に入ると広い!という、”うなぎの寝床”と呼ばれる家の造りです。
この白壁土蔵街は、「壱之町(いちのまち)」通りの裏手にあたり、南に向かって「壱之町」「弐之町」「三之町」と碁盤の目のように区割りされています。
今では観光スポットにもなっているこの景観は、当時メインだった通りの裏側ということです!
住民たちは、壱之町通り側を玄関、裏を蔵という造りにしていたため、蔵がずらっと並んだ今のような景観になったんです。
でも、不思議じゃないですか?
なんで絶対に壱之町通り側が玄関って決まっていたんだろう。
瀬戸川の方からも入れるんだから、一軒くらい反対側が蔵でもいいような・・・。
その秘密は、当時の町の造りにありました。
その昔、幕府の直轄領の増島城(ますしまじょう)の城下町だった古川町。
瀬戸川を挟んで北側が武家町、南側が町人町と区分けされていました。
そして、今は道となっている石畳のところまで武家の屋敷があったそう!
当時は、武家の蔵と商人の蔵が背中合わせになっていて、その間に瀬戸川が流れていたそうなんです。
瀬戸川も今の広さよりもっと幅があったようです。
壱之町側に玄関が揃っているのも、当時身分がはっきりしていたことを考えたら納得です。
その後、武士たちは衰退して武家屋敷もなくなり、そこに道ができ、今のような景観になったということです。
ちなみに、瀬戸川にあるこの小さな階段。
これは昔の住民が、野菜などを洗う「菜洗い」をするために作られたもの。
ちょっと下りて水に手が届くサイズ感がリアルです。
町の造りには歴史が潜んでいるもの。
もちろん諸説ありで、この話は一説として町の人たちが教えてくれたものです。
歴史を感じながら、また町を歩いてみましょう。